偉大なる先人

こんにちは

 

今日はPPS内に飾ってある写真の選手についてお話をしたいと思います

 

 

Jackie Robinson ジャッキー・ロビンソン です

 

あんまりピンと来ない方も中にはいらっしゃるとは思いますが

 

メジャーリーグで1年に1回だけ各チームの選手や監督が背番号をみんな『42』にしているのを

 

ニュースや新聞などで見た事あるという方は多いのではないでしょうか?

 

どんな事をした人なのでしょうか?

 

簡単に言うと 有色人種で最初のメジャーリーガーです!(厳密に言うと違うようなのですがここでは割愛させて頂きます)

 

ジャッキーが 出てくるのがあと10年遅かったら・・・ って考えると色々考えてしまいます

 

ジャッキーについての記事があったので以下で紹介しますので是非 読んで下さい

 

 

ジャック・ローズヴェルト・ロビンソンは1919年1月31に生まれた。奴隷の孫であり、ジェリー・ロビンソン、マリー・ロビンソンの5人の子供のうち末っ子だった。

父はジョージア州カイロ近くのプランテーションで働きながら、やっとのことで生計を立てていた小作人であったが、その父はジャッキーが生後六ヶ月の時に蒸発してしまう。

子供に少しでも恵まれた環境を与えるためにジャッキー一家はカリフォルニア州パサデナに移住するが、そこは白人が主に住んでいる郊外住宅地だった。

彼の近所にすむ白人達から、一度は立ち退き要請が出たが、それは反故にされた。しかし、一家は、嫌がらせを受けることも珍しくなく、お互い力を寄せ合って生きていかねばならなくなった。

マリー・ロビンソンは子供達に嫌がらせに負けてはいけないと言い聞かせた。子供達は貧しくはあったものの、愚痴ひとつこぼさず、懸命に働くマリーを見て育った。

マリーが家政婦として他の家で働く間、ロビンソン兄弟は学校へ行き、スポーツをしてすごした。やがて、ジャッキーの兄、マックは世界的な陸上選手となる。

しかし、ジャッキーは10台の半ばを待つことなく、非行への道を歩みはじめる。近所の不良と付き合うようになり、しばしば地元警察の青少年係りへと呼び出されるようになる。

こんなときに彼にとっては幸いだったのは近くにすむ機械工のカーク・アンダーソンが彼に注意を払ってくれたおかげである。彼はジャッキーをこう諭した。「このまま不良仲間と付き合っていたらお母さんを悲しませることになる。君がこれまでやってきたことは、人に追従することで、それは誰にでもできることに過ぎない。大切なのは個性を発揮することなんだ。」

ジャッキーが不良仲間から離れることができたのは、もう一人、カール・ダウンズ牧師の影響でもある。彼は、ジャッキー一家が教会にかよう牧師であり、ジャッキーが困難な時期を乗り越えるのに友人として力を貸してくれた。二人はやがて、固い友情に結ばれ、ジャキーはやがて、教会の日曜学校で先生の役を買って出るまでになっていった。

やがて、彼は、高校でスポーツ選手として頭角をあらわし始め、陸上競技、野球、フットボールなどで活躍する。

しかし、彼は黒人であったために前途は暗かった。黒人は例え、学位を貰っても職を得るのに役立ちはしなかった。当時は、白人の野球選手ならば、一生懸命プレーしたらみんなから注目をあびたり、スターになれる幸運と報いを期待できた。しかし、黒人選手には何の希望もなかった。

 

ジャッキーはこう思った。

「黒人選手の未来には何が待ち構えているのだろう?」

彼が大学を出て一年後の1942年、彼は陸軍に招集された。

彼をそこで待ち構えていたのは、またもや人種差別的待遇だった。

彼が黒人であるゆえに仕官学校への入学は認められていなかった。

彼は、ライリー駐屯地に配属されていた元世界ヘビー級チャンピオン、ョー・ルイスにこの問題を訴え、ルイスは彼のコネを駆使して他の黒人達が仕官学校に入学できるように便宜を図った。

彼は、この時期、ライリー駐屯地の野球チームに加わろうとしたこともある。このときは露骨な仕打ちを受けた。後に彼のチームメイトとなるピート・ライザーは、偶然、その場に居合わせた。彼はその時の事をこう振り返っている。

「ある日、黒人の少尉が一緒にプレーしようとチームにやってきた。ある仕官が一緒にやることはできないよ、と言った。そして黒人チームなら君を入れてくれるよと彼に言った。それは冗談だった。黒人チームなど基地にはなかったのだ。その黒人少尉は何も言わなかった。彼は我々が練習するのを見ながらそこにしばらく立っていた。そして彼は背を向けて歩いて行った。その時は彼が誰だか知らなかった。けれど、あれが私が初めてジャッキー・ロビンソンを見たときだったんだ。今でも彼が歩き去っていく姿が目に浮かぶよ。」

彼の前途は暗かった。陸軍を除隊した後、彼はニグロ・リーグの名門カンサスシティロイヤルズに入るが、その生活は決して楽なものではなかった。でこぼこだらけの道をバスで走って遠征した。黒人を泊めてくれないホテル、食事を出さないレストランが多かったので彼らはバスの中で食事をし、寝泊りすることも少なくなかった。

しかし、一人の男が、彼の人生を変えることになる。

その男、ブランチ・リッキーは1942年、プルックリンドジャースのマネージャーに就任した。彼は、すでにその時、野球界における最もすぐれたマネージャーとして高い評価を受けていた。

リッキーは、その後のメジャーのシステムの根幹をなすファームシステムを
確立したことでも高い評価を受けている。

しかし、リッキーには、ある胸に秘めた思いがあった。それは、彼が大学監督をしていた時代に遡る出来事に起因している。

チーム遠征が遠征したときのことだった。当時、彼のチームにはチャーリー・トーマスという黒人の一塁手がいたのが、彼は遠征先のホテルで黒人であるという理由で宿泊を拒否されてしまう。リッキーはホテルの管理人に頼んで自分の部屋にトーマスが寝るための簡易ベットをいれてもらう。それは当時、宿泊客に同伴する黒人召使のためにホテルがよくやっていた事なのだった。

その晩遅く、リッキーはトーマスがまるで自分の肌の黒い色をこすり落とそうとするかのように両手をこすり合わせて泣いているのを目撃する。

「黒い肌!黒い肌!」

トーマスは泣きながらそう言っていた。

「この黒い肌を白くすることさえできたら、自分もみんなと一緒に扱われるんです。そうでしょう?リッキーさん?」

リッキーの心は大きく動いた。彼は後にこう語っている。

「私は誓ったんだ。チャーリー・トーマスが経験したような屈辱を他のアメリカ人が味わわなくてすむようにする為に自分のできることなら何でもしようと」

 

リッキーはこの約束を40年間に渡って、自分の胸のうちにしまいながら、その時が来るのを待っていた。人種隔離が基本になっていた野球界に異議をとなるのに相応しい時期を待ちつづけていたのである。

権力をもっていない時期にそんな事を唱えれば、敵対者に潰されることはわかりきっていた。そして、時期を誤れば、人種融合に反対する人間が邪魔しにかかると言うことも。

彼は、ドジャースのGM兼会長になってから、極めて慎重に事を運んだ。彼は、新しい黒人チームを作ると偽って全米にスカウトを派遣し、有望な黒人野球選手をリストアップさせた。

彼は黒人初のメジャーリーガーになるであろう人物がうけるであろう嫌がらせや中傷、プレッシャーを予期した。

そして、それらに耐えた上で、メジャーで活躍できる実力をもつ選手をさがしていた。

そしては、彼はとうとうその条件を備えた人物を発見する。自己を十分に律し、しかも強烈な競争心をもつ男を。

それこそがジャッキー・ロビンソンだった。

ロビンソンとリッキーは、1945年8月28日にリッキーの事務所で出会う。ロビンソンは呼ばれた時には新チームの選手として呼ばれたと思っていたが、リッキーから真の目的を知らされる。黒人初のメジャーリーガーを探しているのだということを。

リッキーとロビンソンの対話は三時間に及んだ。ロビンソンは最後に聞いた。

「ミスターリッキー、貴方は売られた喧嘩を買うのを恐れるような選手が欲しいのですか?」

リッキーはこう答えた。

「私は売られた喧嘩をかおうとしないだけの勇気をもった選手が欲しいんだよ」

ロビンソンは、この言葉を生涯忘れなかったという。ロビンソンは、5分間考えた後、こう答えた。

「この冒険に賭けてくれるのでしたら、僕は何も揉め事を起こさないと約束できます」

そしてリッキーは、ロビンソンにこう諭したと言われる。

「しかし、これからの戦いは、並大抵なことではないんだよ、ロビンソン君。我々には軍隊はない。それどころか、味方がないのも同然なんだ。オーナー、審判はもとより、新聞記者の中にも、我々の肩を持ってくれるものはほとんどいないだろう。多くのファンを敵に回す恐れもある。苦しい立ち場になることは間違いない。我々が勝利を得られるのは、君が偉大な野球人であると同時に、立派な紳士であるから、私がこんなことをするのだ、という点を世間に納得させ得た時だけだ」

そして、ロビンソンはメジャーリーガーとしての道を歩みはじめる。

その道は最初から苦難の連続だった。3Aの監督クレイ・ホッパーはリッキーに泣きついた。


「どうかやめてもらいたい。私は白人だし、生まれてからずっとミシシッピ-州に住んでいる。もしそんなことをしたら、ミシシッピ-から出て行かねばならなくなる。」

ロビンソンは人種差別が根深い南部の州では出場すら許されず、本拠地以外の観客は彼にむかって罵詈雑言を投げつけた。相手チームの選手がグラウンドに黒猫を投げ込み

 

「お前の親戚がいるぞ!」

となじった。

しかし、ロビンソンは、野球選手としては無類の活躍を見せた。彼はシーズン最初の試合で五打数4安打、4得点、3打点、2盗塁で観客を沸かせ、遠征を終え、地元モントリオールに帰ってくるまでに12試合のうち10試合でヒットを打ち、17得点を挙げ、チームが首位を走るのに貢献したのだった。

気付くと、彼はモントリオールの人気選手になっていた。

そして、マイナーリーグの覇者を決めるリトルワールドシリーズに駒を進めるのに多大な貢献をしたが、ここで事態は最悪の展開を迎える。

対戦チームのルイヴィル・カーネルズ側は、主催試合で黒人ファンの入場者制限を行ったために、ケンタッキー州ルイヴィルでは人種間の緊張が高まり始めたのである。幸いにも、大きな騒動にはならなかったがルイヴィルでの試合はロビンソンにとって最悪なものになった。

観客はロビンソンの一挙手一投足に憎しみのこもった野次を浴びせ掛けた。彼は、3試合で1本のヒットしか打てず、ロイヤルズは1勝2敗で追い込まれてしまう。

モントリオールのファンはロビンソンがルイヴィルで受けた仕打ちを聞いて激怒する。そしてシリーズがモントリオールにやってきた時、地元の試合ではロビンソンを応援しようと大勢のファンが押し寄せた。ルイヴィルのバッターがバッターが打席に立つたびに、今度は観客が一斉に耳をつんざくような野次を浴びせ掛けた。


ロビンソンはこう言っている。

「この種の仕返しをいいとは思わない。でもああいう形でもファンが気持ちを
あらわしてくれたのは嬉しかった」

そして、ロイヤルズは反撃を開始する。チームは3連勝し、シリーズに勝ったのである。

優勝を決めた後、観客はロビンソンの名前を叫びながらフィールドになだれ込み、ロビンソンを肩にかついでフィールドを一周した。モントリオールのスポーツ記者サム・マーディンはその日の様子をこう語る

「白人の群集がリンチしようと思ってでなく、慕っているからこそ黒人を
追いかけるのは多分史上初めてのことだろう」

試合後、クラブハウスで一度はブランチ・リッキーにロビンソンを外してくれと頼んだクレイ・ホッパー監督はロビンソンにこう言った。

「君は素晴らしい選手だ、しかも立派な紳士だ。君がチームにいてくれて
本当によかった」

1947年、ブランチ・リッキーはロビンソンをメジャーに昇格させることに決める。だが、ここでも、ロビンソンの前には人種差別の壁が立ちはだかる。

ブルックリンドジャースの選手の何人かは、ロビンソンを受け入れられずロビンソンがチームに加わるのならプレーしないという請願書をリッキーに提出したのである。

リッキーは激怒し、この請願書にサインした選手を事務所によびつけ破棄しないのならば、解雇すると怒鳴りつけた。請願書は取り下げられたが、リッキーは選手の中に残る偏見と侮蔑がいかに根深いものかを思い知らされることになった。

リッキーは決断する。全ての責任を彼が負うしかないと。彼は、自ら、新聞に対してロビンソンの昇格を伝える。

メジャー昇格後すぐのロビンソンは調子は最悪だった。最初の一週間は不振が続き、ロビンソンですら自分の実力に疑いを持ち始めてしまった。

そしてそれに追い討ちをかけるようにロビンソンの野球人生で最悪の出来事が彼を見舞う。

フィラデルフィアフィリーズとの3連戦中にロビンソンが最初の打席に向かう際、人種差別的な嘲りと侮辱の言葉が彼に襲いかかって来たのである。

彼は言っている。

 

「自分の耳が信じられなかったよ。まるで巧みな指揮者の合図に合わせるかのようにフィリーズのダグアウトから憎悪の言葉が飛んできたのだから」

実は、巧みな指揮者がいたのだ。フィリースの監督、ベン・チャップマンがダグアウトの奥深くから言葉での攻撃の音頭を取っていたのである。チャップマンは自他ともに認める黒人嫌いだった。

ロビンソンは、このような攻撃にさらされても成す術を知らなかった。彼は思った。

「フィリーズは俺をどうすれば気が済むんだ?右の頬を殴られたら、左の頬を差し出して。これじゃ、俺は人間とは呼べないじゃないか。俺は、奴らのだグアウトにかけて寄って、奴らの頬を奴らが嫌うこの黒い拳で殴りつけることだってできるんだ」


後に、彼はこの時ほどグラウンドで暴力をふるいそうになった事はない、と言っている。

彼は、深呼吸をして気をおちつけ、バッティングに集中した。

その時だった。変化が訪れたのは。

ドジャースの選手の一人がダグアウトから乗り出すとフィリーズに向かってこう叫んだ

「おい、聞けよ、臆病者ども!」

「お前達、どうして言い返せる奴に向かって野次を飛ばさないんだよ!?」

さらにもう一人の選手も叫んだ。

「お前達のチームが口を同じくらい野球が上手かったらもっと強いチームになれるのにな!!」


フィリーズの汚いやり方が、リッキーという頭のいい男がどんなに知恵を絞っても不可能だった事を、つまり、ロビンソンをチームの一員にするという偉業を成し遂げてしまった。

チームは、汚い野次にさらされても、為す術もない一人の黒人を助けるために団結し始めたのである。ロビンソンとプレーするうちに、黒人も同じ人間であると言う事をチームメイトは知ってしまった。そして、それは偏見の壁を壊してしまったのだ。


ある試合で、ロビンソンが守備についている時、観客から憎悪のこもった野次が浴びせかけられた。

「南部の紳士がどうして黒人なんかと一緒にプレーできるのか?」

と。

その言葉にチームメイトは、行動をもって答えた。ロビンソンに歩み寄り、彼に親しく話し掛け、そして、彼の肩に腕を回した。観客は、それを見て黙ってしまったと言う。

また、ロビンソンが変えたのは、チームメイトだけではなかった。

殆ど、全てのチームの選手がロビンソンを潰そうとした。彼が守備についているときは、誰もが彼の足めがけてスライディングした。誰もがそれを当然のことだと思っていたのだ。

だが、ある時、ロビンソンが激しいスライディングを受けて足から血を流してのたうちまわっているをみた敵チームの選手は考えを改めた。

なぜなら、ロビンソンの血も、彼と同じ色をしていたから。

彼は、二度と、こんな卑劣な真似はすまいと心に決めたという。

また、ロビンソンを快く思わないチームの一つが彼を試合に出さないようにする為に、ストライキをしようとした事がある。

だが、これを知ったコミッショナーは激怒して声明をだした。


「ここはアメリカなのだ。どんな人種であろうとも平等にプレーする権利があるんだ。メジャーリーグは全面的にロビンソンを支持する。」


そして、ストライキに関わった人間を全て出場停止にするという脅しまで行ってロビンソンを守った。

彼をとりまく状況は変わりつつあった。チームメイトは、どんなに彼とチームがなじんでいるかをアピールし始めた。世間から憎悪を剥き出しにされても、それをものともせずにプレーし続けるロビンソンに、他チームの選手ですら敬意を感じはじめた。

そしてシーズンが終ったとき、ロビンソンは151試合に出場し、打率.297、12HR、48打点、29盗塁という成績で、その年に新設された新人王に選出されたのだった。

新人王が、別名ジャッキー・ロビンソン賞と呼ばれるのも、これに由来しています!!

 

 

PPS内にも写真が飾ってあります

 

そして私 長坂秀樹は時々 ジャッキーのブルックリン・ドジャースのTシャツを着ている事もありますので42番のTシャツを見たら 

 

『あ!!ジャッキーのTシャツだ!』と言ってください!!(笑)